藤井林右衛門の想い

不二家の創業は1910年、
横浜・元町に開いた小さな洋菓子店から
始まりました。

創業者・藤井林右衛門が、「不二家」の社名や
お菓子にかけた想いをご紹介します。

藤井林右衛門 ふじい りんえもん(1885-1968)
愛知県生まれ。10代半ばより横浜で働き始める。25歳の誕生日(1910年11月16日)に横浜・元町に不二家を開業。1912年渡米、翌年帰国。戦前は「シュークリーム」「ショートケーキ」をヒットさせ、戦後は洋菓子店・レストランの展開のほか、自ら試作を繰り返した「ミルキー」の成功などで不二家を全国区の企業に育て上げた。

「二つとない存在でありたい」

"不二家"の社名に込めた想い

不二家(ふじや)という屋号は、
1910年(明治43年)、創業者・藤井林右衛門(ふじい りんえもん)が、
外国人居留地に近い横浜・元町に、小さな洋菓子店を開いたときに名づけられました。

自身の「藤井」姓や、外国人にも良く知られた日本一の山である
「富士山」(不二山)にちなむとともに、

「不二」という言葉には「二つとない存在でありたい」という、
25歳の林右衛門の願いと気概が込められていました。

当時まだ横浜でも珍しかった洋菓子が、
これからは日本でも人気が出てくるだろうと見込んでの開業でした。

林右衛門が切り開いた不二家の歴史は、まさに二つとないものでした。

明治創業期の不二家元町店。右上に「FUJI-YA」の看板が見える。
©新関コレクション

「洋菓子を日本に広めたい」

渡米と新たな挑戦

「不二家」を開業し、毎日お菓子を作り、家族とともに店先に立ち、
その合間には材料の買い出しに行ったり、配達に出たりと忙しい毎日。

それでも最初は洋菓子が珍しすぎて、
思うほど売れない日々が続いたといいます。

開店から二年後の1912年(大正元年)、
欧米の製菓・喫茶事情に関心を持っていた林右衛門は、一大決心をして渡米。

洋菓子が一流の場所でしゃれた店舗で売られていることを知ります。

上:不二家開業以前、横浜市内の食料品店を訪れる林右衛門(左端)
下:1920年頃 家族と(左端が林右衛門)

渡米の成果は帰国後の不二家で花開きました。

近代的なキャッシュレジスター、
衛生的にソーダ水を提供するソーダファウンテンを備えた
喫茶室を元町店に増設。

ソーダファウンテンのインテリアカウンター(戦前の銀座店)

外国人だけでなく日本人のお客様も増え、
1922年(大正11年)には2号店となる横浜・伊勢佐木町店を開店し、
「シュークリーム」や林右衛門が考案した「ショートケーキ」が
名物に育ちます。

1937年には、数々の名建築で知られる米国人建築家アントニン・レーモンド氏(1888~1976年)に設計を依頼し、鉄筋コンクリート地下2階、地上6階建ての伊勢佐木町店を新装開店しました(画像参照)。
この建物は2023年8月まで「不二家横浜センター店」として営業を続け、現在は建て替え準備中です。

1938年頃、新装開店した伊勢佐木町店にて(左が林右衛門)。

「お菓子で世の中を幸せにしたい」

人々を魅了した、
明治の青年の強い意志

良質な材料を使っていながら価格は手頃。
「常によりよい製品、サービス」「お客あってのわれわれだ」。
口下手だった林右衛門が珍しく言い切ってはばからないことでした。

戦前戦後を通して、
クリスマスやひなまつりにケーキを売り込むセールを企画したり、
ペコちゃん人形を店頭に飾ったりと、
常に新しいことに挑戦を続け、
不二家は日本中をときめかせるような事業を次々と展開しました。

銀座の不二家の店舗(1958年頃)

悲しみを乗り越えて
誕生したお菓子

林右衛門の人生はすべてが順風満帆だったわけではありません。

関東大震災では、元町店、伊勢佐木町店、
そして開店してひと月足らずの銀座店が全焼。
第二次世界大戦では、多くの店舗や工場を、従業員を失いました。

それでもあきらめずに、戦後、焼け残ったボイラーで沼津にあった工場を再建。
それが後に“ママの味”「ミルキー」の誕生につながります。

戦後は関東以外にも不二家の店舗が増え、
洋菓子が一般の家庭にも広まっていきます。

「ルック」「ポップキャンディ」など個性あふれるお菓子が生まれ、
昭和の子どもたちのおやつの時間を彩りました。

林右衛門が永眠した1968年(昭和43年)、不二家は売上300億円を超える企業に成長していました。

ミルキー(1959年頃のパッケージ)、ルック(1962年のパッケージ)、ポップキャンディ(1960年頃のパッケージ)

いまも受け継がれる想い

林右衛門が送り出した不二家のお菓子は、
今も家族の団らんやお祝いの席にのぼります。

二つとない存在でありたい。
洋菓子を日本に広めたい。
お菓子で世の中を幸せにしたい。

明治の青年の夢は、100年を越えて
今も脈々と不二家の中に息づいているのです。